影を放つ/人生後半を生きる ・映画「ゲド戦記」を見て
先週末のレイトショー、ゲド戦記を見てきた。見るつもりはなかったものの、夫が学生から酷評の嵐を聴き、学生とディスカッションするためにも、見に行かなければならない、というのだ。夫は、大学の教員になってから、ずっと「ゲド戦記」を授業の題材として使ってきている。
映画を見てから、一週間が経った。感想をどういえばよいのか、私はこの一週間、考えあぐねていた。Yahooの映画レビューとジブリの掲示版の感想を読んだりもしてみた。監督の日記も読んでみた。
未だにうまく言えないのだが、簡単に言えば私の感想はこうだ。「この監督は、この原作を深く愛していないし、理解もしていないのだろう。結果的に、巨大な商業主義の波の中で、彼は原作のゲドと同様、放ってはならない影を放った。日記を読む限り、彼は放った影の大きさとその破壊力がわかっていないが、必ずや影は彼を追ってくるだろうし、彼はゲドと同様、逃げ回る羽目になるだろう。その時彼はどう生きるか。それが彼に突きつけられた課題となるだろう。」
この映画は、単純に言って文化の破壊だ。しかし、文化の破壊が必ずしも悪いものとも限らない。新たなものを生み出すこともあろう。ただ、今回の文化の破壊は、商業主義にのっとったきわめて底の浅い、新たに生み出されるもののない破壊だ。原作者のル=グウィンはどのように感じたのかはわからないが、彼女が数十年前に「カモメのジョナサン」について書いた言葉を引用してみよう。彼女の「カモメのジョナサン」評は、まさしく私の「映画『ゲド戦記』」評だ。
「最近のファンタジーもののベストセラー『カモメのジョナサン』はまじめな本、間違いなく誠実な本である。と同時に、知的、倫理的、情緒的にはとるに足らない駄作である。作者は物事を徹底的に考え抜いていない。彼は、この国で我々が得意とする類の、見事にまで包装された‘お手頃な答え’の一つを押しつけようとしているに過ぎない。・・・・」
「・・・・・しかし、アメリカ中の子どもに(『カモメのジョナサン』を)読ませることはできない。子ども達はそれを眺め、明晰で冷静な輝く瞳で、その本質を正しく見抜き、そのまま本を投げ出して遊びに行ってしまうだろう。子どもは膨大な量のがらくたをむさぼり食うものだが(そしてこれは子どもにとっては有益なことなのだが)そのあり方は大人とは違う。こどもはまだプラスチックを食べることを学んでいないのだ」(「夜の言葉」ル=グウィン著 山田和子ほか訳)
ジブリとグウィンの関係から考えて、彼女がどうこの映画をうけとろうと、ジブリを訴えることはあるまい。(彼女は、何年か前に、ゲド戦記をテレビドラマ化した作品に不満を現し、原作ファンと協力し、それをお蔵入りにしている。)それをされない以上、吾朗監督は、自分が巨大な影を放ったことに気がつかないかもしれない。それを気がつかないこと自体が、アニメ文化の担い手として致命傷と思われるが、先のことはわからない。私はただ、この先の彼の生き方を見続けるだけだ。ゲド戦記に関わった以上、私が彼から目をそらすことはあるまい。こんなファンが世界に腐るほどいることを考慮に入れなかったとするならば、彼はあまりにも浅はかだ。
それにしても、この作品は見事なまでに父親殺しなのかもしれない。ゲド戦記をバイブルとし、枕元に置いたという駿監督が、この作品についてどう思うかを考えるとき、これ以上の失望はクリエーターとしてあり得ないのではないか、と感じてしまう。彼が我が子をどこまで切り離せるかがポイントだろうが、日本のような文化圏で、それは難しかろう。この映画の試写を見て、駿監督は1時間で席を立ったという。彼はとどめを刺されたのだろう。刺されて倒れた父を見て、息子の吾朗監督はどう思ったのか。自分が刺したことで父が倒れたことに気がつかなかった、ということはあり得るのだろうか。そこまで深く物事を考えない人なのかもしれない。映画と監督日記を見る限り、そういう人なのかもしれない、とも感じる。とにかく私は、見続けるだけだ。
商業主義、ということも、今回の映画で考えさせられたことだ。この垂れ流し続けられる宣伝はなんと考えるべきか?幼い子どもが楽しめる作品にはなっていないのに、宣伝のターゲットには明らかに幼い子どもも含まれている。レビューを見ていると、若い父親母親の怒りの声が多い。楽しませたいと思った映画で、子どもが楽しめないと言うほど、若い親にとって単純な怒りを覚えることも多くないだろう。「はだしのゲン」を見せるのともまた違う。後で何かを得る、という造りにもなっていない。
しかし、今回の映画を見ることで、私は多くのものを得たと思っている。私は再び、ゲド戦記を手に取り、3巻から5巻を読んだ。ゲドもテナーもテハヌもレバンネンも私の中で生きていた。イメージは侵されることはなかった。侵されるには、あまりにも強いイメージが私の中に既にあったためとも言える。映画を見て、私は傷つくこともなかったし(これはとても意外だったのだが)、ただ、非常に色々なことを考えさせられた。実はあまり読み切れていなかった5巻の意味を再確認できたことは、思いがけないプレゼントとなった。ファンタジーの最高傑作といわれた3作の後に、なぜ4巻と5巻をグウィンが手がけたのか、人生の折り返し地点に来ている私は、改めて考えさせられた。人生の折り返し地点からどう生きるか、それが今の課題である私には、ゲド戦記はやはり大きな羅針盤になってくれそうである。ただし、羅針盤を読み取り、舵を切っていくのは、自分自身しかいない。「ゲド戦記」とは、まさにそういう作品である。名作とは、読み手に考えさせるものであり、メッセージを連呼したりしないものなのだ。
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