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2006年8月26日 (土)

「ゲド戦記」の改変/「生命」をいじる

すっかり「ゲド戦記」日記になっている昨今、でも、「アトピー日記」というわけでもないし、つれづれなるままに書いているので、すみません、いい加減で、、、。

私は、現在、某ゲド戦記フォーラムなる場所で、「セリダーのネコ」というニックネームで何度か投稿している。夫が先に「セリダー」という名前で投稿したので、(「セリダー」というのは、原作「ゲド戦記」の舞台のアースシーという世界の中で、やや最果ての場所にあり、竜が住んでいる。原作「ゲド戦記」では、この竜がかなり意味を持っている。)自分の名前を「セリダーのネコ」としたものである。(いい加減な。)そこで少し議論になったのが、「原作をどこまで変えて良いのか」という点である。

原作「ゲド戦記」を読み、映画「ゲド戦記」を見た人なら、容易にわかるだろうが、映画版は原作とは相当違っている。この「相当」が許される範囲ものであるのかないのか、私はかなり深く考えてみた。(というほど私の思考は深くはないが。)私は、原作の生命というか精神的支柱が変更されるほど改変されるならば、すでにこれは原作の改変ではない、オリジナルと考えるべきではないか、と思っている。そういった場合は、原作○○を冠することは止め、最初から作り直し、別の題を付けて「小説○○にインスピレーションを得た」とかのクレジットにすべきではないのか、と思うのである。もともと、小説でも映画でも文化的生命というべきものがあるだろう。その生命そのものに変更が加わるとき、原作を冠するべきではない、というのが私の持論である。だいたいが、原作の生命まで変えるつもりなら、最初からオリジナル作って自分の言いたいこと言えよ、と思う。

しかし、原作の生命をも改変する変更であっても良いものが生まれることもあるだろう。実際、パロディなどは、原作の生命を生かすと言うよりは、風刺している場合が多い。それはそれでまた文化とも言える。時に原作から全く新たなるものを生み出し、ブレークスルーしていく天才も存在する。だから、そういった変更すべてを否定すべきではあるまい。ただし、私の場合は、元々何かの原作をもとに変更する、ということ自体に大きな抵抗を感じるタイプなのだと思っている。つまり簡単に言えば、私は、命であろうが、人であろうが、本であろうが、それを変更すること自体、あまり好きではない、といったほうがいい。たとえば、クラシック音楽をジャズ化したりするが、どうも好きになれない。私は、元々命あるものを「いじる」ことが好きではないのだ。これは、私の人生のなかで、私が自然に身につけた好みとも言えるし、生き方のスタンスとも言える。だから、私の目から見れば、非常に安易な変更が加えられたように見える映画「ゲド戦記」は、どうしても受け入れられないのだ。(私は、宮崎吾朗監督、鈴木プロデューサーの書いたもの、インタビューに相当目を通したが、彼らが加えた変更はあまりにも安易だし、全く成功していない、と思う。)

しかし、矛盾は私の中にもあふれている。「生命をいじる」ことにこれほどの抵抗感を書き連ねた私が、実は「生命をいじる」ことを仕事にしている。このことは、自分の問題としても、社会の問題としても、非常に根深いものがあると感じているので、ちょっと連続して書いてみたいと思っている。

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