小説「青い鳥」
今、この小説を読んでいる。このところ、仕事とその他様々なことに時間が忙殺され、小説を読むのは久しぶりだ。ほんとうに、最後に読んだ小説は何だったのか、それはいつだったのか、思い出せない。
吃音の障害を持つ一人の教員が、その吃音の障害故に生徒に寄り添うことができ、少なくとも一部の生徒達には、他のどの教員よりも「大切なことを伝える」ことができる。そんな話が生徒達の側から語られ、いくつかの短編が一つの小説を構成している。すべての短編で、教員は生徒から見た第三者として登場する。しかし、この小説からは、肝心の、吃音を持つ教員の苦しみは述べられてはいない。それ故に、「おそらくは吃音という障害が彼にもたらしたであろう苦悩」は、まるで底辺を流れる旋律のように重厚な存在感を持つ。
どの程度重く見られるのかわからない「隠すことにできない障害」は、色々と存在する。アトピーもそうだろう。吃音もそうだろう。社会の中で生きる上で、こういった「隠すことのできない障害」は、本人をひどく追い詰め、巨大な重圧となりうる。それを乗り越えるのは本人しかいないし、他者にその重圧を真実の意味で理解することは難しい。
私の周囲には数人「隠すことのできない障害」を持つ人がいる。(もちろん私自身、紛れもなくその一人である。)そんな障害が、必ずしも温かく見守られるとは限らない。実際、そういった障害に対する厳しいコメントを、耳にしたこともある。私は、それが自分に向けられたものではなかったにも関わらず、思わずショックを受けてしまったが、ショックを受けること自体、健康な人からすれば驚くべき世間知らずなのかもしれない。
でも同時に私は思いたい。そういった「隠すことのできない障害」を抱える人の存在は、「社会には多様な人がいる」ということを若い世代に伝えるすべになるのではないか、と。決して無意味なんかじゃない、と。本当に社会にはたくさんの人々がいて、健康な人だけではなく、病をかかえ闘病する人も、心を病む人も、弱い人もいる。そういった多様性を受け入れる心の広さや他者に対する思いやりを持つことの重要性を、皆に、少なくとも一部の人たちに、教えてくれるのではないか、と。しかし同時に、自分の「隠すことのできない障害」はどうにも重たく、消えて無くなって欲しい存在であることも事実だ。そんな思いに駆られながら、それもまた何か意味があるのだ、と私は自分に言い聞かせようとする。
こんな惑う気持ちの中で読んだ小説「青い鳥」だった。吃音という、教員にとっては致命的とも言える障害を抱えながら、それ故に、大切なことがより深く生徒に伝えられる、という物語なのだ。そして、主人公の教員は、弱者故の苦しみを知るが故に、ひどく暖かい。時に生徒の心ない言葉に動じながらも、その揺るがない姿勢は、読むものの心を打つ。
私はこの教員のように何かを伝えられるのだろうか?自分の悩ましい障害故に、よりよく何かを伝えたり、あるいは相手を理解できたりするのだろうか?それとも、これはこの人の特殊能力なのか、あるいは、そんなものはハナから小説にしか起こりえないことなのか。私にはよくわからない。しかし、小説の先生が歩んできた道を、そして多くの実在する障害を抱える人々の歩んできた道を想像するとき、非力な私にも、悩む自分にも、何かができるのかもしれない、そんなふうに感じたい、と今思っている。
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